各館の出来事
仙台市博物館
1986(昭和 61)年 3月(新館)開館
宮城県仙台市青葉区川内26
ヒアリング調査:2012/10/16
面 積 | 敷地面積:19,758㎡ |
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建築面積:5,283㎡ | |
延床面積:10,800㎡ | |
構 造 | 鉄骨鉄筋コンクリート造 |
規 模 | 地下1階、地上2階 |
年間来館者数 | 平成21年度 90,721人 平成22年度 194,702人 平成23年度 127,790人 平成24年度 199,818人 |
震災の被害について
建物の被害
ロビー、ミュージアムストリート、企画展示室等の天井一部破損
レストラン壁、天井一部破損
総合展示室 展示ケースガラス等一部破損
防煙たれ壁3枚破損
外部軒天井一部破損
常設展示資料一部破損
人的な被害
なし
文化資料
大きな被害なし
施設管理に関するヒアリング調査まとめ
震災発生当日の様子
来館者:150 名(特別展「ポンペイ展~世界遺産
古代ローマ文明の奇跡~」開催のため平常よりやや多かった)
スタッフ数:職員 30 名(但し、当日は半数勤務)
アルバイト 4~5名
アシスタント 10名
警備員 3~4名
機械室 3~4名
清掃 4名
ポンペイ展事務局員 15~20名
地震発生当日の避難の状況
地震発生直後に避難放送を行い、緊急避難先として館正面入口前の広場を震災本部として設置し誘導した。
震災発生当日の施設閉鎖までの経緯
地震発生とともに避難→来館者はそのまま帰宅→残った職員で点検後、閉鎖。
16:30 | 全スタッフが館入口前に待機(委託業者、アルバイト含め) 館内の私物を取る場合は 2、3人一組で館内に入ることとした 嘱託、委託、アルバイトスタッフは帰宅 |
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17:00 | 展示室、収蔵庫等を含む被害状況の確認(30分程度)、デジタルカメラ画像・メモ書きなどの被害資料集約 |
17:30 | 博物館職員帰宅、係長以上の職員は待機、館内保安確保(シャッターを手動で降ろす等) |
19:00~ | 残留職員も順次帰宅 |
20:00 過ぎ | スタッフ完全帰宅(委託業者で帰れなかった人は、職員が車で送った。) |
震災直後の様子 3月12日~3月末日までの期間
3月 12日 | 臨時休館 同時にポンペイ展展示物や常設展展示物の確認点検 (備考:ポンペイ展の展示物はイタリアからの借り入れ) |
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3月 16日 | 博物館を建てた佐藤工業による被害調査 |
3月 17日 | 応急危険調査(建設会社による。一階部分は利用可という判断) |
3月 22日 | 被害仮設調査及び応急処置(天井落下物などの状況調査) |
ポンペイ展・常設展の展示物の損壊調査と直後の対応
- 当初は博物館スタッフによる目視。ポンペイ展については、その後画像を送り東京の企画紹聘元が判断、対応を指示。交通状況が改善するとともに東京から数人のメンバーが来仙し確認
- 収蔵品などについて余震による二次的な損壊への対策
- 落ちそうなものや倒れそうなものは安全位置への移動や紐による固定を行った
- ライフラインが復旧しない状況下で、懐中電灯などで対応
地震発生当日に普段の用途と変えて使用した部分
基本的には休館とし、用途変更はなし
職員の業務
- 被害状況と収蔵品・展示資料の確認
- 避難所への応援勤務(10日間)
- 職員及び施設関係者(資料所蔵者、研究者、元職員など約100人)の安否確認
- 資料寄託者(約100名)へ資料の無事の報告
- 資料調査などの際の協力者等約300名に資料保存を要請する文書を送付
- ポンペイ展の企画招聘元や仙台展実行委員会との諸連絡
施設内(建築、設備、備品、資料など)の正確な被害状況の把握
3月 11日~3月 13日 施設内部~外構~収蔵品(おおよそは 1~2日で把握)*職員を中心に2人1組で行動
復旧支援など、協力者の来訪
- マスコミ(新聞社など)
- 資料寄託者等のお見舞い等の訪問
- 文化財レスキューのスタッフ
施設再開まで
4月 4日 | ポンペイ展展示資料の安全確保のため一時展覧会休止 |
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4月 7日以前 | 常設展ほぼ無傷のため、常設展から再開の見込み(5月のゴールデンウィーク頃) ポンペイ展はイタリア側との協議が長引く予想 |
4月 7日 | 大きな余震により、常設展の特注ガラスが破損。常設展再開の見込みが無くなり、残していた常設展資料を収蔵庫へ。そのためポンペイ展を優先的に再開の交渉→4/19にイタリアの許可が下りる |
4月 8日 | 天井等の復旧工事開始 |
4月 21日 | 復旧工事(1回目)完了 |
4月 下旬 | 市長自ら現地確認し再開許可を判断 |
4月 29日 | ポンペイ展再開 |
6月 5日 | ポンペイ展終了 |
6月 8日~7月 22日 | 震災対応の工事(2 回目)(展示物のガラスケース修理) |
7月 下旬 | 常設展再開(上記を鑑みながら決定) |
1月 16日~2月 27日 | 一時休館してエントランスの天井の改修(3 回目) |
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3月 8日 | 紅白梅図展(多くの集客) |
改修工事以外の復旧業務
- 職員(学芸員):展示資料を収蔵庫へ収納(普段は運送業者に委託するが非常時のため)。収蔵庫の整理、展示資料の固定(紐などで)
- 仙台市史の編さんの業務が一時停止(印刷業者の営業停止のため)。
- 企画内容の修正変更。ポンペイ展後のボストン美術館の展覧会はキャンセル。理由は主催者側の許可が下りなかったことと23年度の震災以降の予算の執行停止(業務としては、実行委員会やマスコミ等との連絡)
- 職員の館外での応援業務として避難所の運営支援を23年度の6月頃まで何回か行う。3月中旬より 10日間から2週間、朝・昼・晩 3交代。一回に2~3名が勤務。その後も断続的に避難所の応援を行う
- 瓦礫処理の立会いへの職員派遣(これも上記同様の期間、断続的に続く)
- 資料レスキュー事業に着手
復旧支援など、協力者の来訪
- 文化庁などが中心となって実施した文化財レスキュー事業の宮城県現地本部として館内施設を提供→全国の博物館、文化財関連施設の職員、研究者等の活動拠点に
- ボランティアの受け入れは行わなかった
- 市民からの当館への寄付の申し出が複数あった(仙台市に寄付はいただいた)
- 施設使用者のキャンセル対応は特になし(元々貸し出しが少ない)
震災前に利用していた市民や活動団体との連絡
寄贈者、寄託者等に連絡、安否確認と資料無事の知らせ
再開までの復旧過程で、参考とした資料及び事例等
初めての経験ばかりであり、特に参考とした事例はなし
施設再開後
来館者への災害対応における留意・確認点
- 避難行動の判断基準作り
震度3で注意、震度4以上で避難(避難訓練を定期的に、具体的に想定して実施) - 基準作りについて
震災以前に震災避難マニュアルは存在(大きな地震などの際は避難するという大雑把なもの)。震度3で安全確認、震度4で避難か待機、避難の場合は放送で知らせるなど、経験を踏まえ現実的なものに修正した
施設貸出しに際する留意・確認
- 市内のホールは被害が大きかったが、当館の貸出対象のホールについては被害が小さく、常設展と同じ時期に貸出開始(ホールのみ)
- ギャラリーも使える状態だったので資料レスキューの本部として使用。23年度は貸し出さなかった。ホールについても貸し出しは少なかった(学校教育の普及活動における学校の説明などでの使用)
*地震発生などの情報の周知は徹底するようになった
管理・運営方法で震災前と変更した点
- 震災以前から宮城県沖地震発生の可能性が 99%という情報があったので、収蔵品の固定の仕方や、展示の仕方は対策を講じていた
- あまり被害がなかったことに関しては、上記の要因に加え、建物自体の耐震性能も高く、立地地盤も比較的強固だったため。(体感的にも揺れは発表震度よりも弱く感じた)
その他
管理・運営方法について、震災後の課題
基本的に対応は変わっていないが、危機対応マニュアルの精度は上がった。
事業・企画に関するヒアリング調査まとめ
震災当日から施設再開まで
再開当日、使用者や来館者の様子から特に感じたこと
市民(活動団体含む)から、寄せられたメッセージは断続的にあり、アンケートなどで「施設が開いて安心した」という感想をもらったなどと再開を喜ぶ声が多かった。
市民の利用状況で変化した点
来館者の服装を見ると、施設再開直後~ゴールデンウィークまでの来館者数が少ない時期は比較的ラフな格好の来館者が多かったが、来館者数が増えてきた 5月下旬頃から、日常的なフォーマルな余所行きの服装に変化してきた。ポンペイ展終了頃には震災以前の平均来館者数を超える数となった。
施設再開後
震災前に企画していた事業等の中で、震災を受けて会期等企画を変更したもの
ポンペイ展の展示の中で当初予定していた、ポンペイの人々が火山灰に生き埋めになった被害の様子を紹介した作品は展示しない方向に変更した。
新たに震災関連の企画を立案・実施したもの
東北の震災の歴史を展示することで今回の震災を考えるためになるのではないかと考え、過去の津波などの歴史を伝えるパネルを展示。4月 29日より初めはパネル5枚でスタートし、段階的に充実させ、最終的には20枚作成した。(当館の無料ゾーンに展示)
- その後も震災時だからこそ文化財の重要性を感じてもらうために、上記のパネルに加え、文化財レスキューの様子の展示を、展示室内、ギャラリー、廊下などを使い継続して展示
- また、パネルを多く作って、学校や市民センター、区役所、市役所への貸出も並行して行った(観覧者から、パネルの撮影の希望や、パネル内容を資料として貰いたいとの希望が多く、パネル原稿の白黒コピーの冊子を希望者に 3000部ほど配布)
- 来年度2013年の新しい来館者が見込めるイベントを見据え、改めて上記パネルを館内に展示する。また館外での展示も行いたい。年内一箇所を目標に開催場所を検討中であり、パンフレットのような冊子も検討している
震災後新たに関係(国内外問わずネットワーク)を有した団体
文化財レスキュー事業
- 文化庁(以前から博物館業務のなかで関係有り)、国立の文化財研究所、市内外の博物館の職員や研究者などが参加
- 国立の博物館、国立の文化財研究所
- 県内外、市内外の博物館(特に宮城県内の被災したミュージアム(例、石巻文化センター、気仙沼市立のリアス・アーク美術館など)の施設など)
- 文化財レスキューの宮城の拠点として当館が7月末まで機能し、その間、国立の博物館や文化財研究所のスタッフが常駐。5月下旬~6月は一日平均20人、7月は十数人が事業に参加(※実際に作業にあたる人に加え、視察も多数)
- 当館は後方支援(基本的には館内の作業を中心に活動)に徹し、技術者や東北大学の研究者との橋渡しをした
- 基本的には県の文化財保護課が事業の中心的役割を果たした
- 個人所蔵資料や福島県内におけるレスキュー活動の案件で宮城歴史資料保全ネットワーク(NPO)へのつなぎ役を果たした部分がある
- 平成23年度後半以降は、文化庁の補助金などを活用した
文化財レスキューを経験して
- 宮城県は比較的順調に事業が推移(福島、岩手に比べると)。教育委員会が早期に事業を発足させ、国や県内外の関係機関との連携を推したことが要因といえる
- 既存の学芸や関連機関の連携組織はあまり機能しないことが多かった。どちらかといえば県の担当者と各施設の職員、学芸員などの横のつながりが強く、それが軸となって活動が展開された
- 当館が事業の現地本部となったのは、文化財レスキュー側からのアプローチ(立地が良いこと と、以前から関係機関との人的関係があったこと、被害が比較的小さかったことなどが要因と推定)である
市内の文化財保有者の巡回調査
- 4月下旬~8月末に約280軒を訪問した。民間の持っている細かい資料については文化財レスキューではフォローできないと判断し、当館職員3~7人が3人1組で週3日のペースで市内の旧家や寺社などを巡回訪問し、資料の有無と被災の有無を調査。応急処置が必要な場合は館側で引き取り、処置を行った
- 訪問判断基準は経験と記憶。現代は旧家などでも古文書などの保持の有無を認識していない所が多い(*昭和20~30年代はどこの家が長く歴史があるなど、祖先の記憶を受け継いでいたが、今は希薄になっている)
- そもそも存在を知らない、又は資料の存在を知っていても自らの生活の復旧で精一杯であったり、遠慮の気持ちで要請しないなどがあり、訪問を行うことで、新しく資料が出てきたり、探しておくなどの行動を促したり、実は待っていたなどの反応があった(※必要な部分があれば文化財レスキューと連携した)
公文書等の保全活動
- 国立公文書館の取り組みの中で、被災公文書の修復、支援事業(国の 3 次補正による)が行われた
- 当館では、中野・荒浜・東六郷の3つの小学校と荒浜の消防署の被災公文書については、7月~9月頃に被災状況を把握していた。その中で一部の処置できるものについて、乾燥やドライクリーニング等を行っていたが、分量が多く処置しきれなかった。国立公文書館の修復事業で当館の休館期間に1ヵ月半ほど場所を提供し、事業を実施した。当館職員も協力し、費用は公文書館負担で3小学校と消防署の被災資料の洗浄・乾燥・再生の作業を行った
応援業務
- 9月以降の、市内の小規模ミュージアム施設の支援(被災書庫の整理など)も実施
その他
地域におけるミュージアムの役割が震災前後で変わったと感じたこと
- 仙台市博物館は国宝や重要文化財を保有したり、展示したりする公開承認施設としての一面もあるが、一方で地域の博物館としての役割も意識する必要があると震災後感じている
- 地域の資料の所在調査については震災の有無に関わらず実施してしかるべきことだったと感じている。資料レスキュー活動における所在調査の重要性は以前からも言われていたが、今回の震災で改めて再認識した
- 資料を将来へ残していくためにも日常の業務として資料の調査活動は、継続的にやっていくべきことである(まだ訪問できていないところもあるし、再度訪問するとまた新しく資料が出てくることも多くある。何かあれば連絡下さいと呼びかけていても、遠慮か億劫で自主的に連絡が来ることは少ないので、巡回済みのところでも何度も訪ねることが必要)
- 市全体で取り組んで(指定文化財、埋蔵文化財、汲々としている中ではあるが)、当館が中心になって、他の施設と連携して行っていこうと思っている
- 震災後、資料の預かりや、寄贈の申し出はあったが、例年より特別に増えたわけではない
- 阪神・淡路大震災後に実施された時、文化財レスキュー事業では、一時的に預かり、最終的には所蔵者に戻すという方針ではあったが、戻せる状況に何年も要したり、そのままで関連機関への寄贈に移行したりする例も多かった
- 当館で保全やレスキューしてきた資料についても、今後の見通しは不透明である
※文化財レスキュー事業の期間は2年に延長(文化財レスキュー事業は当初は1年の予定)され、文化財レスキュー関連の委員会などは2012年度で終了する
「宮城県被災文化財等保全連絡会議」とは
県内の連絡調整のためのグループ(幹事:東北歴史博物館 副幹事:当館)で、県の教育委員会、宮城県美術館、ミュージアム施設、市の教育委員会、文化財課、仙台市科学館、東北大学、リアス・アーク美術館など計25~26団体で構成。
- 上記のグループが当分宮城県内では、預かった資料、文化財の処理を決めていく予定
- 被害が大きかった石巻文化センターについては平成 30 年に再建する動きがあるが、この施設の資料は全国に分散しているため、その把握と保管上の問題(今保管している施設が持ちきれなくなる可能性や、資料の劣化の恐れなど)に対応しなければならない
- 沿岸部の津波被害の地域では、現在でも時折資料が発掘されたりするのでその対応が求められる
- 幹事会を2ヵ月に1回、全体会議を 3~4ヶ月に1回のペースで開催
- 今回の文化財レスキューでレスキューされた資料が3~4年後にどう使われているかが問題(今回レスキューされたものが結局どこかの収蔵庫に入れっぱなしになっては意味がない)。 少なくとも、今回のレスキュー事業を契機に宮城県内では上記の問題が起きないようにすることと、地域への情報発信と連携関係の仕組みづくりに取り組むことが必要と考えられる
- まだ復旧していないミュージアムでも、震災から3~4周年の時には色々なところでレスキュー活動や震災関連の展示があるかもしれない。それがきっかけとなってミュージアム施設と地域とのつながりが深まることが期待される
- インフラ停止の時の空調の問題は震災の発生が3月だったので、 そこまで問題はなかったが、夏ごろの計画節電(間欠運転)の時や、震災直後のチェックでは見逃されていた設備の被害が後になって出てきたことが問題だった
- 被害の見えにくい被害がある可能性を見越して、長期的に被害検査をしていくことが大事
- 躯体の被害だけでなく、設備機器の被害もしっかり、長期的に点検していく必要がある
再開にあたって
市民からのメッセージについて
- 当館常設のアンケートによりいくつか再開を喜ぶメッセージが寄せられている(改めて新しくアンケ ートは作成していない)
余震の起こる中、一旦再開の判断基準について
- 4月 7日以降比較的余震は収まってきたことと、本震でそこまで大きな被害がなかったため、安全を一旦確保したと判断した(ポンペイ展や常設展の開催なども視野に入れて判断した)
- 神戸でも余震は1年続いた。完全に安全の判断は誰にもできないので、そこは折り合いをつけて、市民の文化的欲求に合わせて展示をしていく
- 当館は1986年完成なので、今後10年、15年先を見て、改修などの展望も整理する必要があると考えている。特に機械設備は 10~15 年スパンで 10 年前くらいから考えている
- しかし近年の財政悪化、震災による復興への優先により、施設のランニングコストに影響が出ると考えている。また今は震災による緊急の補助金により行っているが、将来的な施設の老朽化・定期的な修復の考え方についてはなかなか進んでいない
- 建物と文化財の時間的なスパンが合致しない(建物:数十年/文化財:数百年)ために、インフラ整備についてもランニングコストが分かっていないので、継続して機能するようにそれを平均化して伸ばしていくしかない
ミュージアムの運営と地域社会との関係について
- 被災地にあるミュージアムは地域の文化財を扱うことと共に、人々の文化的欲求を満たし、心の安定を得るための「癒しの場」としての在り方が求められるようになった。展覧会やイベントの意義が変化している
- 文化財資料を保持している旧家や寺社などについて、仙台市内だけで恐らく 1000 軒くらいをフォローする必要があるが、外に対して特にアピールをしないコレクターに関してはフォローしにくい
- 今回の巡回訪問では旧仙台城下、市街地は対象とできなかった。最近の都市化に伴い、以前の旧家などが駐車場やビルになっていたりして(土地を保有したまま貸地化している状態だと推測されるが)、どこに移ったか分かり兼ねる状況があったからである。また都市部では既に住んでない人や、居留守を使われることが多いなどの理由もある(街中以外でも何度訪れても留守の家が何件かあった)
- 平成の市町村合併などによって、文化財審議委員や文化財保護委員の数が減り、且つその多くが大学等の研究者となっている。これによって合併前に見られた学校の教員や郷土史家のような地域の事情に通じた人物が委員を務めることは少なくなり、地域の記憶の知識(何処の家が古いとか、結婚関係があったなどの詳細な記憶)が失われていった秋保町、宮城町:仙台市との合併と共に記憶の継承が難しくなった七郷・六郷・岩切・長町:昭和初期の合併による記憶の断絶
- 今回の旧家の巡回調査は断片的なこれまでの情報の蓄積によって、370 件のリストをつくり巡回したが、仙台市内には、このような旧家の情報や地域の事情に通じている人材はごく限られており、危機的状況である
- コミュニティの変質(解体)により、農村部でも歴史的記憶は薄れていっている。地域に固有の文化や歴史的な記憶や資料をいかに将来へつなげ、且つ市民と共にその情報を活用していくかという問題が、文化財行政やミュージアムの活動の新たな課題として、浮かび上がったように感じられる