各館の出来事
せんだいメディアテーク
2001(平成13)年1月開館
宮城県仙台市青葉区春日町 2-1
ヒアリング調査:2012/11/14
面 積 | 敷地面積:39,48.72 ㎡ |
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建築面積:2,933.12 ㎡ | |
延床面積:21,682.15 ㎡ | |
構 造 | 鉄骨造、一部 鉄筋コンクリート 造 |
規 模 | 地上7階、地下2階 |
年間来館者数 | 平成21年度 691,861人 平成22年度 524,966人 平成23年度 654,718人 平成24年度 656,189人 |
震災の被害について
建物の被害
3階図書館 / ガラス破損
7階 / 天井落下
1階南側大開口 / ロックピン破損
人的な被害
なし
施設管理に関するヒアリング調査まとめ
震災発生当日の様子
来館者:200~300 名(推測)
職員数:メディアテーク職員15~20 名、図書館 20 名
その他の職員:舞台機構操作員、清掃、設備、警備、アルバイト など25 名 計約 70 名
地震発生時の避難について
- 来館者、職員などメディアテーク裏(敷地外)の駐車場に避難
- 図書館利用者などの施設利用者以外は発生後すぐに館外へ避難し帰宅
施設利用状況
- 金曜日は5~6階ギャラリーを使用した展示会にくる人が多い曜日。ただ、3月11日は前の週から開催されている展示会だったため、それほど混んでいなかった。
1 階オープンスクエア 利用なし
2 階会議室 利用有り
5~6階 利用有り(せんだいデザインリーグ)
震災発生当日の施設閉鎖までの経緯
- はじめに屋外の駐車場に全員避難したが、雪が降り始めたので、敷地内バックヤードに移動。職員がラジオを起動(空港の津波被害の情報を得る)
- ヘルメットを着用し、各階の状況確認や安全確認と貴重品の搬出をおこなう
- 最少必要人数でグループを組んで西側の避難道路を使い、来館者の荷物を取りに行く。財布やコートを置いてきた人が多かったため何度か往復した(又は改めて来館をお願いした)※16:00頃終了
- その後主要職員を残し施設閉鎖作業を開始した。他の職員は解散、帰宅
- 南側大開口のロックピン破損を確認
- 正面玄関の電子錠が停電により施錠不可となっていることを確認
- 南側歩道へガラスが散乱していたこともあり、立ち入り禁止のバリケード設置及び注意の張り紙設置
- メディアテーク内の 4 隅の 4 本の柱と梁に破損がないかを点検
- 19:00頃当日休日シフトだったスタッフが合流
- シャッターが自動で上がらなくなっていたため、手動で上げる作業を行う
- 20:00頃全館を閉鎖し、解散
※非常照明が点灯し、最低限の照明は確保できていた
震災直後の様子 3月12日~3月末日までの期間
震災直後から、バックヤードを一時退避場所に使用
職員の業務
- 3月12日8: 30に全職員出勤とした
- 1 階の搬入口に集合、情報交換。全職員の安否確認
- 出勤当番を決め、その他の職員は帰宅し以後自宅待機とした
- 3 月 14 日~15 日までは待機するだけの期間が続いた(守衛室の下で待機)
- 職員2名、公用車にガソリンを確保するため市内のガソリンスタンドへ
- 交通手段獲得のため放置自転車を使えるようにした(2~3 台)
- ライフライン対応。1箇所だけ水の出る水道が外にあったのでそこを利用。電気は3月14日に復旧
- 3月15日オープンスクエアを事務スペースとして確保し、1 階と2 階を優先的に片付け作業開始
- 3月17日図書館オフィス内作業開始(躯体の安全確保後)
- 3月18日メディアテーク職員による避難所への応援勤務開始(高砂市民センターへ朝~夜、2名ずつ、約10 日間)
- 3月28 日全職員通常出勤
- 3月29 日に他館からの応援18人を含め、図書館の片付け作業を 2/3 程度行う
- 3月30 日業務に必要な機材を7 階から2階へ移動開始(4月7日にほぼ完了)
- 施設利用予約者への連絡およびキャンセル対応
作業の詳細
- 最低 2 名 1 組で作業。安全確認が取れておらず、環境も悪かったためなるべく短い時間で作業
- 2階が業務の中心となるため十分な環境確保に時間がかかった。PC用ケーブル類の床下配線、電話線の配線の作業に時間を割く
- 1階オープンスクエアにオフィスを設置。必要最低限のPC、外部との対応業務(連絡・打ち合わせ)
- 4月 7日の地震後、図書館の片付けに他の市民文化事業団職員が応援に駆けつける
- 「卒業設計日本一展」に関わる学生スタッフが30人程度(のべ100人)で模型の片付けを行う(3日要した)
施設内(建築、設備、備品、資料など)被害状況の把握
- 3月 13日~ 館内の状況調査
- 3月14日 電気保安協会と通電確認→漏電などで火災が起きないように事前にチェック
- 3月15日 職員用エレベーター運転再開
復旧支援など、協力者の来訪
- 施工業者 (以前担当だった人が個人的に)訪問。その後業務として訪問
- 3月12日、13日は熊谷組(現担当者)
施設再開まで
3階市民図書館、5月再開
4 月 2 日 設計者伊東豊雄氏が市長と面会(東北大・小野田泰明教授同席)連休前再開を確認
4 月 9 日 移動図書館を再開(臨時駐輪場で)
4 月 26 日 記者発表(市民図書館とメディアテークの一部開館について)
※5月 3日までに 1~3 階の機能を復旧させることが第一目標となる。「エスカレーターの不具合の補修」と「消火水槽(地下)の補修」が具体的な課題であった。また崩落したガラスの復旧工事も行われたが、当初は強化プラスティックで代用した。
5~6階ギャラリー、6月3日再開
5~6階ギャラリーは 5月 3日の時点で復旧できていたが、直ちに貸し出し対応はできなかったため、6月 3日に再開することとした(市民図書館は上記経緯で5月に再開決定がなされたが、ギャラリーの再開は当初から6月と予定されていた)
・6月3日再開後の経緯
6月3日に再開したが、当初利用状況はまばらだった(出展者側の都合による)。利用状況が元に戻ったのは8 月以降だったように思う(2階の会議室もほぼ同様)。
2012年1月の全面開館は7階の復旧工事日程に合わせて決定した(工事は10月半ばより開始)。
改修工事以外の復旧業務
10月半ばからの7階復旧工事期間中は、6階ギャラリーの貸し出しを中止、使用不可能になった7階オフィスの備品を6 階に移動させ、仮置きした。
復旧支援など、協力者の来訪
- 3月11日同様、4月7日の地震後の設備などのチェックは県外(京都や長野など)からの業者が行ったとの報告もある
- 4月8日に仙台市民文化事業団職員が市民図書館の応援作業に来館(17 時まで)
震災前に利用していた市民や活動団体との連絡
- 4月17日以降電話がつながり始め、館使用取り消しなどの連絡をとる
- 還付請求を受付
施設再開後
施設貸出しに際する留意・確認
- 施設の貸し出しについての打ち合わせの際に、地震想定の質問が増えた(1 月再開後)
- 避難経路の安全確認とその後の落ち着いた避難誘導を指導している
- 落下の危険性のある照明(イベント用)からの退避を指導している
管理・運営方法で震災前と変更した点
- 部分再開期間は開館時間を変更した
5月 3日~5月 31日 10:00~18:00
6月 1日~ 10:00~20:00 - 節電のため、エレベーターの運用を常時4台から、3台に変更
利用状況で変化した点
- 全体的な利用状況は一時期減少したが、現在では戻りつつある
- 夜型の活動利用が少なくなった印象がある
その他
管理・運営方法について、震災後の課題
- 維持管理業務や点検業務などに大きな変化は無いが、防災訓練などは見直した。3.11発災時は地震の揺れによる誤作動で火災報知器が鳴動したため、地震のみを想定していたマニュアルが機能しなかった
※地震の場合は揺れが収まるまで屋内で待機、火災の場合はすぐに屋外に退避、と全く対応が異なる。 - 帰宅困難者についての課題が解決されていない
事業・企画に関するヒアリング調査まとめ
震災当日から施設再開まで
- 事業担当職員も復旧作業の補助を行う
- 避難所等への支援活動に参加
- 県立美術館や事業に係る関係者及び事業団関係者などと個別にコンタクトし、情報を共有
- 国内外の美術関係者からの支援などへの対応
※1 それぞれ支援の連絡があったが、どのような支援を受けるべきか判断しかねた
※2 メディアテークへの寄付の話が多くあったが、館単独では受け取れないため当初保留していた - 国内外メディアへの対応
- 再開時の事業にまつわる関係者への連絡
その他
企画立案・運営方法について、震災後の課題
- 生涯学習施設であるメディアテークだからこそできることに重点を置き、震災後に顕在化した「隔たり」(被災地/非被災地、被災者/非被災者それらが層のようになっている状況)に「行き来する回路」となり事業を展開。これにより、被災の状況、心情などにアクセス可能、個々の学習機会となるように取り組んだ
- それらの事業にはこれまでにない市民の積極的な参加が見られた
- しかしながら、その積極性が日常の回復と共に目減りしつつあることから、その維持に重点を置く事業を今後も継続させていく
震災を体験した文化施設関係者として、未来に向けて残すべきもの
将来的な展望
- 震災後に取り組んだ市民による復興過程の記録アーカイブがある。(事業「3がつ11にちをわすれないためにセンター」)今後は、これらの資料を活用した事業に取り組んでいく
- また、これらの資料はまとめて将来設置が予想される「メモリアルセンター(仮称)」的施設に権利移転できるようにしてある。これにより、よりスパンの長い伝承へと用いることができる
- 震災によって課題が明確化し、施設を活かしつつ「公共」に寄与する事業により具体的に踏み込むことができたように思われる。これらの経験を今後の事業に反映させていきたい
地域との関係において震災前後で変わった(変えざるをえない)点
てつがくカフェについて
例えば「てつがくカフェ」という事業は震災前だと抽象的なテーマを扱っていたこともあり、どうしても参加者は少なかった。震災後、言葉にならない言葉を持ち寄る参加者が、それぞれの経験を語り合う場として、自然に参加するようになり能動的な参加者が増えた様に思える。これも各個人が当事者意識を持って、公共の場に臨んでいる現れのように思われる。市民(特に地域住民)とメディアテークは、こういった「てつがくカフェ」のような集まりの中で、地域文化が生まれていくようなことを積極的に持ちたいと考えている。そしてこの「場」の箱の中で、色々な事業展開が行われるような構造をも作っていければと感じている。
※メディアテークで開催されている事業の大多数は施設を一定の料金で貸し出す「貸し館事業」であるが事業の品質の担保はされにくい。貸し館であるからという理由での文化施設の一方的な場の作られ方がある場合、もしかしたら「てつがくカフェ」の様な場はsmtの事業を行う上での批評の場(市民フォーラム)としての機能が担えることになるかもしれない。
地域におけるミュージアムの役割が震災前後で変わったと感じる点
ミュージアムの役割の変化
ドイツのミュージアムの民主主義的な運営(展覧会の内容等を全員で決める)の事を講師に来ていただいて学んだがその時はあまり理解できずにいた。しかし、てつがくカフェなどの事業が頻繁に行われるようになり、より(ドイツの事例が)身近に感じるようになったといえる
。
特に「コールアンドレスポンス」という事業はアートやミュージアムに関心の高い一般市民が学習を通して展覧会を作り上げる事業が機能し始めたように感じる。
一般的な観点から言うと百年近く作り出されてきた美術館・博物館というシステムがメディアの進化に伴い時代遅れになり壊れかかっていた状況に加えて、大震災が追い打ちをかけ大きく揺らいだが、そのことで、ある意味これまでのコードからは自由になり、ゼロからの再生を地域とともに連動して行おうという意識も強く芽生えてきている。つまり文化財を守るだけでなく、地域とともに現在の「文化連携」も再生していかないと美術館・博物館が成り立たないという意識が生まれたと思う。(佐藤泰副館長)
学芸員の意識の変化
震災時は様々な部署の職員と一緒に復興のための仕事を行い、一体となって何でも作業しなければ成らなかった為、個別の専門的な職の意識よりも、全体を見ながら個別の仕事を行うという意識が芽生えたように思える。
また学芸員という仕事は狭き専門領域を掘り下げる仕事でもあり、ともすれば美術館・博物館という権威に乗っていれば存在は保たれてきたが、震災によってそれは揺らぎ、どんな仕事をどう行っていけば良いかという自覚が出てきたように感じる。(佐藤泰副館長)