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2020/11/27
ミュージアム界隈 第6回「『見験図鑑』を手に取って」
2020年、仙台・宮城ミュージアムアライアンス(SMMA)は設立11年目を迎えた。新型コロナウィルスの世界的な感染拡大は、SMMAの活動にも大きな影響を与え、計画されていた事業の多くが中止のやむなきに至っている。そんな状況の中で手元に届けられた10周年記念誌「せんだい見験図鑑(けんけんずかん)」。SMMA参加館のみんなの思いが詰まった図鑑となった。
私は幼い頃から図鑑の類がとても好きで、魚や水生昆虫の図鑑を何度も見ては、川や沼にタモ網とバケツを持ち、自転車に乗って意気揚々とでかけたものだった。学校から帰宅してそのまま毎日出かけていたような時期もあった。初めて取ってきた魚や虫を図鑑で調べては、それらの名前やどんな生き物なのかを知ることがとても楽しかった。あんなにたくさんの情報をよくも小さな頭に出し入れしていたものだと今になって思う。その後、興味は天体に移り、魚や虫の図鑑を見ることはまったくといっていい程なくなってしまったが、テレビの映像などを見ていると不思議に普段は口にすることのない魚や水生昆虫の名前などがすらっと出てくるのだった。図鑑を手に取る楽しさを思い出し、数年前、ハンドブックタイプの魚の図鑑と野鳥の図鑑、そして野草の図鑑を買いなおした。
さて、今回の図鑑は本屋で売っている図鑑とはちょっと趣が違うけれど、不思議な魅力を持っている図鑑だ。
再び私事となって大変恐縮だが、この図鑑が呼び起してくれた私の記憶の断片に少しお付き合い願いたい。
〈化石〉
小学校に入学する1年半くらい前、両親が建てた新築の自宅に引っ越した。自宅のあったところは、まだまだ宅地の造成が続いていて、新しい住宅を建設している現場がまわりにいくつもあった。それらの建設現場にはどこに行っても貝の化石がついている岩のような塊がごろごろあった。引っ越した当初は珍しかったので転がっている岩のひとつひとつを見ては、ここにも化石がある、そこにも化石があると興奮する自分がいた。そのうちに、貝の化石など転がっているのは当たり前などと思うようになり、見向きもしなくなっていったし、収集することもなかった。私のコレクションに貝殻はたくさんあっても貝の化石がひとつもないのはきっとそんな理由からだ。
〈さえずりの季節・木の実〉
小学生になって初めての夏休み。毎日、自宅のすぐ裏の森で遊んだ。その森は小さい子どもにとってはけっこう深い森、あるいは山に感じられるものだった。通っていた小学校の校歌にも出てくるカッコウの鳴き声がクリアに聞こえた記憶がなんとなく記憶の片隅にある。宅地から森へ飛び渡る場所を流れる、川幅はとても狭いが水量の豊富な流れに手作りの筏(いかだ)を浮かべ、乗って遊ぼうとしたのだが、筏はすぐバラバラになって流れて行ってしまった。森の中には草地や狭い変形の田んぼがところどころにあって、アゲハ蝶やオニヤンマ、ギンヤンマ、いろいろな種類のイトトンボなどを容易に見つけることができた。ミヤマカラスアゲハには、なんてきれいなんだろうとうっとりしたものだった。2年生を迎える春、私は父の転勤で仙台を離れることになった。初めての探検の舞台にもお別れをしなければならなかった。この森がその後台原森林公園になったことを何年も後になってから知った。
〈水〉
父の転勤で仙台に戻ってきたのが高校1年生の夏。高校へは自転車で通学していた。学校への行きかえりには広瀬川沿いの遊歩道を自転車をこいで通うのがとても好きだった。川面を毎日見つめながら、自転車を止めてぼーっと過ごすこともしばしばだった。途中、貸しボート屋さんが営業していた場所もあって、ボートをゆっくりと漕ぎながら過ごしている人たちを少しうらやましい思いで見ていたりもしたものだった。冬の渡り鳥たちが頭を水の中に突っ込んで足をばたばたさせたり、並んですいすいと進んでいく姿を見るのに飽きることなど全くなかった。初めてカワセミとヤマセミに出会ったのもこの川辺だった。
〈市電〉
高校への通学。天気の悪い日は市電を利用した。始発の長町駅前から大町西公園前まで、通学の時間帯に乗っているのは女子高生ばかり。西公園前で降りたときになぜかほっとしたことを覚えている。秋が深まった頃、落ち葉が軌道を埋め尽くし、車輪がスリップして電車が立ち往生することも時々あった。大学の入学試験に市電で出かけた3月。その3月をもって市電は廃止された。長町駅前で花電車が出発するのをたくさんの人たちと一緒に見たことを覚えている。市電廃止後、アスファルトで埋められた市電の軌道が路面から露出してくることがあった。冬期間、スパイクタイヤで削られたのが大きな原因だった。そのスパイクタイヤも仙台市民による脱スパイクタイヤ運動の取り組みによって、その後、法律の制定へと結実し、禁止されることとなった。
〈未来への取り組み〉
大学に入学してから時々ひとりで動物園に出かけるようになった。ある雨の日。好きだったゴリラ舎でガラス越しにゴリラを見ていた。いろいろゴリラに向かってちょっかいを出しても何の反応もない。ところが、少し目を離しているうちに目の前にゴリラが来ていた。巨大だった。手の甲でゴンとガラス窓をたたき、もといた場所に急ぎ戻って何事もなかったかのように座っていた。挨拶をしてくれたんだと思った。急にゴリラの存在がとても身近なものになった。数年後、ワシントンDCにあるスミソニアン国立動物園が発行した英文の資料を読む機会があった。アメリカでは動物園がミュージアムに分類されていること、そして将来の世代に対する骨太の使命を持ち、その実現に向けた様々な取組みをしていることを初めて知った。まさに目からうろこの思いだった。
〈城の石垣〉
無事に2年で教養課程から専門課程に進学した。あまり真面目な学生ではなかった私は授業をさぼって大学の植物園で時間を過ごすことも多くあった。また、時々は仙台城までのんびりと散歩をした。散歩する時はいつも本丸跡にたどり着くまでの道沿いにある石の建造物が何なのか気になった。かといってそれらが何であったのかを自分で調べたことはなかった。その頃は仙台城がどんな城だったのかなどあまり深く考えることもなかった。ただ本丸跡が間近になるにつれ目の前に迫ってくる石垣は迫力と切れ味があってかっこいいなと思っていた。その頃の仙台市博物館は現在の博物館ではなく初代の博物館で、仙台の都市規模の割にはとても小さな博物館だったことを思い出す。入口玄関の近くには伊達政宗の胸像があったような気がする。また、博物館内部の通路がなぜか途中から少し傾斜があった記憶もある。でも、そこで何を見たのかが思いだせないでいる。とても残念だ。専門課程に進学してからキャンパスを離れるまでの6年間、歴史資料や本、展覧会めぐりの世界に時を過ごした。2年で専門課程に進学したことはなんら「無事」を意味するものではなかったというわけだ。
この「見験図鑑」は少しページを開いただけで、こんなふうに私を記憶のフィールドに連れ出してくれた。普段は思い出しもしないような様々な記憶の断片がよみがえり、つながり始めた。この図鑑は、これを手にした人の記憶のフィールドに何か刺激を送ってくれる、そんな力があるのかも知れない。みなさんにも是非手に取ってみていただけたら嬉しい。
さて、記憶のフィールドを辿ったあとは、この図鑑を持って、実際に街なかのフィールドを歩きたい。時空を飛び越えた歴史の痕跡や自然の息遣いを確かめてみること。それはきっと、静かな幸せな気持ちに満ちたこれからの時間を楽しむアート(art:術・わざ)を知ることにつながるのかも知れない。
この図鑑を手に取ってみなさんは何から始めるだろうか。私は、市電の敷石の凸凹が磨きなおされずにそのまま残っているという場所をまずは訪ねてみようかなと思っているところだ。
せんだいメディアテーク副館長・遠藤俊行
▼ これまでに掲載したコラム「ミュージアム界隈」
ミュージアム界隈 第1回「それぞれの「交流」の物語」
ミュージアム界隈 第2回「日常の切れ間に・ブリューゲル展にて」
ミュージアム界隈 第3回「梁川にて」
ミュージアム界隈 第4会「ミュージアムトークテラス 第4回 『水族館今昔物語~水槽の向こう側~』」
ミュージアム界隈 第5回「ミュージアムユニバース 〜すてき・ふしぎ・おもしろい〜」