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花とクリと縄文と

自然をうまく利用して暮らした縄文時代の人々。花も利用したと考えるのは自然ですが、どんな風に?と問われますと証拠は残っておりません。わずかに見つけたのが、北海道名寄市日進19遺跡の1つの楕円形の穴です。この穴(長径72㎝×短径57㎝×深さ19㎝)にお墓の可能性ありと考え、「“埋葬時点で何等かの植物等も副葬してはいないか”という視点」をもって、分析が行われました。縄文時代は土葬が一般的でしたので、お墓かもしれない穴に埋まっていた土を調べた訳です。土は8つの塊で採取され、そのうち2つの塊だけにキク亜科の花粉が集中していました。この状況から献花の可能性が指摘されています(注1)。“亡くなった方を弔い、花を手向ける”、現代の我々と同じ気持ちがあったのかもしれません。このような分析例はごく少なく、もっと増えれば楽しいですね。

クリの花

【クリの花】

花以外、植物全般となりますと、いにしえの植物を知る手掛かりは土の中に色々あります。地下水が豊富な場所では、数千年以上も前のままの姿で、幹・根・葉・実・種などがみつかり、現在の植物と比較することで属や種が明らかになります。ほかにも掘りたての新鮮な土の中に含まれる、花粉、プラントオパール(植物珪酸体)、珪藻と呼ばれる単細胞植物の種類や数量などを調べることで、その場所にはどのような植物がどの程度生育していたのか、どういった地形だったのか、周辺で人間が作物を育てていたのかなど、いろいろなことが分かります。

クリの実

【クリの実】

話は変わって、名前の由来が独楽(コマ)を作る材料になるから、とも言われている木の実をご存知ですか?

ヒントは「日本に20種類以上あるブナ科の木の実の総称」で、「独楽やヤジロベエなどを作って、誰でも一度は遊んだことのある木の実」で、「当館展示室では食料として紹介」といいますと、もうお分かりでしょうか。答えはドングリです。縄文時代はドングリを食べていました、というと大抵のお客様が驚かれます。ですが、現代でもよく食べるクリはブナ科の木の実(一般的にはドングリとは呼ばれませんが)ですし、関東以西ではスダジイなどの苦みのないドングリを食べたことのある方は結構多いようです。

スダジイと違い、東北日本に自生するドングリは渋く、そのままでは食べられません。ところがクリは生のままでも食べられますし、寒さにあたると糖をつくる酵素が増えて甘くなるという性質があるそうです。甘いものが限られた縄文時代ですから、ひと冬越した甘いクリをより美味しく食べていたのかもしれません。さらに遺跡からみつかる木製の道具や柱を調べると、クリは実を食べるだけでなく、材もよく利用していたことが分かっています。当館に復元している竪穴住居も、ほぼ全てがクリの木で作られています。実も、幹や枝も有用な植物がクリなのです。

家や道具をつくるためにクリを伐ったら、収穫できる実の量が減って大変と思ってしまいますが、そこは縄文時代の人々、そうならない工夫をしていたようです。まずは花粉の分析調査から。青森県三内丸山遺跡や宮城県里浜貝塚など東日本の縄文ムラのいくつかでは、ほぼクリだけの林がムラのすぐそばにあったという説です(注2)。これらの縄文ムラでは、クリの花粉が著しく優勢な地層と少ない地層があり、前者はムラが栄えた時期に、後者は人が住む前やムラが衰退する時期に対応していたそうです。つまり自然状態では土の中にあまり多く含まれないクリの花粉が、人が大勢住むようになると大量に含まれるようになるというのです。さらに奈良県橿原市と御所市にまたがる観音寺本馬遺跡では、縄文時代晩期のクリの根株が約20本、ムラからやや離れた場所で見つかりました。幹の太さは50㎝程もあり、樹齢約100年のものもあったといいます。一帯では約20種70本程の樹木が見つかったそうですが、クリは密集していたそうです(注3)。実も木も有益なクリは、縄文時代の人々の身近に特別な状態で生長していたといえそうです。

クリの葉と縄文の森広場復元住居

【クリの葉と縄文の森広場復元住居】

食であり、道具であり、愛でる対象でもあり、季節の移ろいを知らせてくれる。縄文時代の人々は、植物から様々なメッセージを感じ取っていたのでしょう。

仙台市縄文の森広場 平塚幸人

(注1)名寄市教育委員会編1992『名寄市日進19遺跡』名寄市
(注2)吉川昌伸2011「クリ花粉の産婦と三内丸山遺跡周辺における縄文時代のクリ林の分布状況」『植生史研究』18-2(抜刷)
(注3)読売新聞・毎日新聞・奈良新聞 2010年2月27日(いずれもインターネット版)

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