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梅と梅干

梅は中国から渡来した花です。今は花と言えば桜の花ですが、平安時代以前は花といえば梅だったようです。貴族たちは名木を庭に植え見せびらかしました。
まだ肌寒い中に、一つ二つと白い梅の花を見つけると、「ああ春が来た」と感じるのです。梅の花は別名「春告草」(はるつげぐさ)などとも呼ばれています。

梅の花

梅の花

榴岡公園には、2701本(低木を除く・平成3年現在)の色々な樹木がありますが、その中のひとつに、桜の花が咲く前の3月、公園の南斜面に白い花を咲かせる梅の木々があります。

歴史民俗資料館の建物は、かつての旧陸軍歩兵第四連隊の兵舎でしたが、そこの連隊長であった石原莞爾が昭和9年にこの地に200本の梅の木を植えました。石原莞爾が、兵士の栄養補給や非常時などを考えて植えたものだといわれています。現在は約50本の梅の木があります。

榴ヶ岡公園の梅の木

榴ヶ岡公園の梅の木

梅の花が散って、実が大きくなってくると桜の花の季節です。その桜の花が散ると梅の実の収穫となるのです。

ここで少し桜について触れますと、人々は桜の花が咲くと、その木の下に集いお酒を酌み交わし、花見を行います。こういった光景は、桜の季節どこでも見られますが、桜はそれほどに人々に親しまれている花です。
当歴史民俗資料館がある榴岡公園も、仙台の桜の名所のひとつに数えられています。
榴岡の桜は、仙台藩四代藩主綱村が、京都から取り寄せたシダレザクラをこの地に植えたことに始まります。そうしてこの地を開放して、一般庶民も花見に訪れる場所となり、人々が桜を楽しんだということです。今では桜の季節になると368本もの桜の花が咲き、多くの人たちで賑わいを見せます。

話はそれましたが、梅はどれほどに私たちの生活の中に入ってきたかは、おめでたい時の松竹梅や家紋、着物の模様にも梅の花がデザインされていることにもあらわれていますし、食べ物の味を調えることや、物事のほどあいに使う塩梅などという言葉があることでもわかります。私たちの生活には切り離せないものなのです。

最近はスーパーやコンビニでも梅干しが売られているのを見かけますが、かつては自分の家で作るのは、ごく普通のことでした。
梅干は色づいた梅の実を塩漬けにし、土用に入ってからムシロなどに並べ三日三晩外に干します。干しあがった梅の実を、別に塩漬けしておいた赤紫蘇と、その漬け汁に合わせて一緒にかめに入れて漬け込みます。
このようにして漬けた梅干は、食品の腐るのを遅らせるといわれ、お弁当やおにぎりに入れられます。この他にも、子どものおやつ代わりに梅干しは使われました。筍の皮に梅干を入れ、その皮を三角に折って、端からその汁を吸ったりしたものでした。

梅干作り

梅干作り

かつては今日のように簡単に医者にかかれなかった時代、この梅干を薬としても利用しました。 頭が痛い時は梅の肉をコメカミに貼り、虫歯の時は、歯に梅肉を詰めたり、頬に貼ったりしました。また疲労回復の効果があるとして食べたり、風邪をひいた時は、黒焼きにしてお湯を入れて飲むとよい、などといわれました。

梅干しは今日では梅酒や梅ジュース、ジャムなどにして食べたり、料理やお菓子に使われたりと身近な食品として幅広く利用されています。また最近では梅干しに含まれているクエン酸が疲れを取るということが注目され、健康食品としても販売されていますが、実は、クエン酸が注目される以前から生活の知恵として梅干しの薬効は暮らしの中で活かされていたのです。

仙台市歴史民俗資料館 主任学芸員  佐々田 弥生

参考文献
『地元學 榴岡公園』1991年
『草木花の歳時記 四季花ごよみ 座右版』1994年
『三六八本の桜が伝承する~今昔物語り~ 榴岡公園』20011年
『日本の食生活全集④宮城の食事』1990年
『ものと人間の文化史99  梅干』2001年

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